2014年9月27日土曜日

二十年の音楽活動に終止符を打った最終作 ― VALENSIA『Gaia III・Aglaea・Legacy』(2014)

アグライア(ガイアIII)~ザ・フェアウェル・アルバムアグライア(ガイアIII)~ザ・フェアウェル・アルバム
(2014/09/24)
ヴァレンシア

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'93年にアルバム『Gaia』で、日本国内だけでも十数万枚のセールスを叩き出して鮮烈なデビューを飾ったオランダのソロ・アーティスト ヴァレンシアの、単独名義としては実に十年ぶりとなる新作にして、ラスト・アルバム。2010年にシングル『One Day My Princess Will Come』を完成させているので、厳密には十年ぶりではないのですが、結局このシングルは種々の事情によりリリースされませんでした。サイド・プロジェクトとして、敬愛するQUEENの楽曲の数々へほぼ一人で挑んだトリビュート・アルバムや、ロビー・ヴァレンタインとのユニット「V」、実弟のデヴィッドと組んだシンフォニック・メタル・プロジェクト「METAL MAJESTY」でも活動を展開しておりましたが、これらの活動も、いずれも十年ほど前にさかのぼるものです。世間的には(少なくとも日本国内では)やはり忘れ去られかけた存在になってしまった感は否めません。そこにきての新作となると、嬉しさという以上に複雑な思いもありました。国内盤ライナーノーツはヴァレンシア自身のコメントが掲載されており、楽曲の解説のほか、これまでの自身の音楽活動の歩みや矜持、そして新たなフィールドでの再出発について述べられております。アルバムジャケットに写る、四十三歳になったヴァレンシアの、華やかなようでどこか哀しげな表情からも、ミュージシャンとしてのキャリアを終えることへの含みのようなものを感じてしまいます。

本作はヴァレンシアの二十年に渡った音楽キャリアの最後を飾るアルバムであり、'93年のデビューアルバム『Gaia』、'00年に発表した『Gaia II』に続き、「ガイア」三部作を締めくくるアルバムでもあるのですが、結論から言うと、ここで聴けるのは「予定調和」「焼き直し」以外の何ものでもない内容です。アルバムの構成はもちろん過去二作を踏襲していますし、楽曲的にも過去の楽曲の変奏ともとれるフレーズが出てきます。また、敬愛するアーティストへのオマージュも全開であり、"Tere III"ではEAGLESの"Hotel Carifornia"を、"Finca Paris"はBEATLESの"Penny Lane"を、"Here Comes The Moron"は同じくBEATLESの"I am the Walrus"をそれぞれ彷彿とさせる仕上がりになっています。半ばツギハギの謗りを受けそうな内容なのですが、それでも非凡なセンスで鮮やかに最後まで聴き通させるパワーがあるのです。むしろ本作で初めてヴァレンシアに触れる人にとっては、間違いなく生涯に残る傑作になるのではないでしょうか。かつて『Gaia』を聴いて惚れ込み、生涯に残る傑作だという思いを抱いた人たちと同様に。それだけに「様式美」「これまでの集大成」という言葉でお茶を濁すことも十分可能なのですが、自分にはどうしてもできませんでした。彼の類まれなる才能を以ってしても、そして二十年の歳月を通しても、『Gaia』はやはり最後まで超えられない高い壁であったという、一種の諦めの気持ちの方が強かったのです。


冒頭を飾る"Tere III"は、これまた三部作として制作されてきた"Tere"シリーズの最後の楽曲で、前述したように"Hotel Carifornia"をベースにした九分半の大曲。様々なアイデアとオマージュの断片がふんだんに組み込まれた楽曲展開で最後まで押し切るという、想像するだにゲテモノめいた印象を感じさせるのですが、実際には一環して上品さすら漂う構成にまとめあげられています。これだけをみても、彼の楽曲構成力と凝り性はやはり驚異的というほかないです。幼少期に出会ったQUEENやケイト・ブッシュから鮮やかに受け継いだコーラスワークを軸に、生来の音楽的素養であったレゲエをはじめ、ワルツやヒップホップやオペラの要素も流し込んでキャッチーに落とし込む彼のユニークにして絶妙なポップセンスは、凡百のミュージシャンが一朝一夕に真似できるものではありません。しかしその一方で、一人でなんでもできてしまうがゆえの限界も感じてしまうのです。それは本人も以前から重々承知していたようで、ライナーノーツのコメントでは、デビュー時からQUEENと比較されてきたことに対する自身の見解、そして「オリジナルな音楽」と認識すること/認識されることへのパラドックスについて述べています。また、“これは僕の楽曲の単なるヴァリエーションで、納期に向けて焦って作ることがよくある…”とぶっちゃける一面も。

“僕の考え方はいつだってこうだった。「今日、みんなが100万ものボブ・ディランのフォーク・ソングをやっているけど、どれもみんな同じ。"Penny Lane"のような曲は世界に一つしかない」。こんなに素晴らしいスタイルを使わないなんてバカげているよ。メロディがオリジナルでありさえすれば、僕はそれでオーケーなんだ。”

“そもそも僕は、オリジナルになんてなりたいと思ったことはなかった。でもこのキャリアを終えようとしている今、結局僕の音楽がオリジナルだということはわかっている。

“肝心なのは楽曲そのものなんだ。そしてそう、それはオリジナル。聴けない人にはそうは思えない。僕の音楽はとても若い人たち、そしてとても音楽性豊かな人たちのためにあるんだということを発見した。その他の人たちは、僕が他の人たちと同じことをやっていると僕をオリジナルと見なす。興味深いパラドックスだ。”
(ライナーノーツより)


考えようによっては、「QUEENやBEATLESやケイト・ブッシュへのオマージュをいくつも捧げてきた彼は、最後の最後で自分自身をもオマージュして、本作を作り上げた」とみることもできるかもしれません。また、本作の歌詞はこれまでのように幾らかのオブラートに包んだり女性たちとのことを面白おかしく軽妙に綴ったものではなく、かなりストレートにヴァレンシア自身のプライベートな心情を吐き出したものになっているのも見逃せないところです。あまり表に出すことのなかった自身の過去のトラウマや確執、リスナーへの痛烈な皮肉や真っ黒な悪意をぶち撒けているのにはいたく驚きました。ひとつ挙げると、"Tere III"のなかには【日本からの呪い】というパートが存在し、そこでは“昔の呪いが上空を舞う 桜の海から海を越えて 全ての魔女達よ 気をつけるがいい―”と歌われています。なかなかに痛烈な一撃。思えば、華々しいデビューの後に彼が辿った道は、決してやさしく、そして満足のいくものではありませんでした。

アルバム制作の過程でヴァレンシア本人が音楽以外の別の道に力を注いでいきたいと思い始めてきていたのも、いくらか影響していると思います。彼の生来のナイーヴさも、良くも悪くも活動に大なり小なり影響していましたが、最後までそれを失わなかったのはある意味 救いだとも思いました。二十年培ってきたキャリアにしがみこうとする逃げ道を残さず、このアルバムを以って音楽活動を終えると宣言したヴァレンシアの潔さには心の底から感服します。彼は今後、映画芸術の道を征く決心をしたようです。ライナーノーツで彼はたびたび“自分がやってきたこのスタイルの音楽は決してなくなりはしない。いつか戻ってくる”という旨のコメントを述べていましたが、これはヴァレンシア自身が再び音楽へ戻ってくるという意味ではないでしょう。自分も、彼自身が再び戻ってくることに期待はしてません。今はただ、彼の新たな門出の先に幸多からんことを願うのみです。